耳刈ネルリと七人の花婿

耳刈ネルリと奪われた七人の花婿 (ファミ通文庫)

耳刈ネルリと奪われた七人の花婿 (ファミ通文庫)

 石川博品の文体は本当に読みにくい。何故かって無駄が多すぎる。地の文の半分は無駄な気がする。同じような文体だと入間人間のがそうだと思うけど、こっちはもっとひどいと思う。個人的な話だけど、あっちは慣れればすいすい読めるが、こっちは単純に読むのに時間がかかる。
 でもその読みにくさが持つ雰囲気がある種の魅力で、その無駄な部分にセンスが詰まっている。この奇抜で不思議な文体が楽しめれば、こんなにおもしろいものは無いと思う。


 今巻で正直残念だったのは、レイチの語りによる妄想の変態度が1巻に比べて低下していること。たぶん1巻よりアクを弱めたのが原因だろうけど、まぁしょうがないかなというところもある。今回のコーチキンの動乱を書くきっかけと今回裏で動いていく計画が、もしかしたらそれに抗う意味を示唆しているんじゃないか……ってちょっと考えてしまった。
 でも、俺が思うにそういう「不真面目な文体の裏に隠された真面目なテーマ」のように見えるものは実は飾りで、それは不真面目な文体を書くためにでっち上げられた仮面なのだ。
言論の自由を奪われて亡命しようとするコーチキン、父親との邂逅とか、最高に盛り上がった劇中劇を書いていて、その実、わがままボディのわがままな部分がわがままな感じになったとか、おしっこ白夜行とか、ナウシカとかが書きたいだけなんじゃないか。
 ちなみにここまで僕の発言は全て出まかせ。先輩を勢いで論破することしか頭にない。
 もしこれが、この小説そのものを言い表したものだとしたら?いやもちろんそんなこと本気で思っているわけではないけれど、なんとなくそう感じることで、このレイチの奇抜なセンスによる語りはいっそう面白くなる、そんな気がする。